小説版BLOOD RECALL試し読み
ソラヲオモウ
2006年6月21日
S県Y市。海沿いの街は、その日観測史上最高気温を記録していた。先日までの長雨は嘘のように、真っ青な青空には巨大な入道雲が一つ浮かんでいる。梅雨明けはまだだというのに、まるで真夏日のような日差しが照り付けている。
市を挙げての市民祭りは午前中から開催され、街中には様々な出店が並んでいる。大通りは歩行者天国として開放され、パレードやダンスのステージなどが催され、賑やかな音楽が流れている。
「ママ、ちぃちゃんのアイスね、この青いのと、ピンクの!」
「えぇ、2段にするの?お腹壊さない?」
「いいの!大丈夫!2こ食べるの!」
「まぁいいわ、今日は特別暑いしねぇ。すみません、このブルーソーダアイスと、ポッピング・ピンクアイスっていうの、いただけます?」
「はい、ブルーソーダとポッピング・ピンクですね。容器はカップかコーン、どちらにいたしますか?」
「コーン!サクサクのコーンがいいの!」
「はいはい、騒がないの。すみません、じゃあコーンでお願いします」
「はい、ではコーンでご用意いたします。少々お待ちくださいね」
パレードが賑やかに通過する大通りの脇には色とりどりの屋台が並び、沿道の人々はパレードの列に手を振ったり、屋台での遊戯に興じたりと、思い思いにこの夏の盛りを楽しんでいる。
「この暑さだからかしら、なんだか人が少ない気がするわねぇ」
「いえ、なんでも祭りの主催者や市役所に脅迫電話が来たんだそうです」
屋台の女性定員が、二段盛りにしたアイスを女の子に手渡しながら答える。
「「21日はY市の外に逃げろ」とかなんとか。最近は海外も物騒になってきましたし、何だか気味悪くって。市長や市役所側は、いたずら電話かなんかだろうて言って、そのまま祭りを開いたんですけどね」
女の子は、渡されたアイスに早速かじりつく。上に乗った真っ青なアイスはさわやかなソーダ味で、祭りの熱気で火照った咥内を甘く冷やしてくれる。その様子を見て、じゃあ私もと、母親もバニラアイスを注文する。
「ほとんどのお店は気にも留めないで、お祭りに参加したんですけどね。それでもいくつかのお店は不参加になっちゃって。そのせいか、人通りも例年に比べると少なめですね」
掬いだされたアイスは紙製のカップに盛り付けられた。少し溶け出した真っ白なアイスは、天頂に上った太陽の光によって照り輝いている。
パレードは、流行りの少女向けアニメの主題歌を流しながら女の子の前を通りかかる。パステルカラーに装飾された大きなフロートの上から、アニメキャラクターに扮したダンサーがアイスをほおばる女の子に向かって手を振ってくれる。世界が楽し気に廻る。
この後はデパートへ行って、ママとお洋服をみるの!来週のピアノの発表会で着るドレスはど
んなのがいいかな?このアイスみたいなピンク色?パレードのお姉さんみたいなキラキラのイエロー?素敵なドレスがあるといいな!そのあとはちょっとおねだりしてオモチャコーナーに連れてってもらおう!この前テレビのCМで見たお人形のおうち、屋根が今日の空みたいな青色で、とっても素敵だったの!発表会、上手に弾けたらママに買ってってお願いしよう!夜はデパートのレストラン!デザートも頼んじゃおう!あぁ!楽しみだな!
目に映るものすべてがキラキラと輝いていた。
だからだろうか、視界の端に映った「モノ」は強烈な違和感を放っていた。
街一番の高さほ誇る商業施設のタワー、その頂上付近の上空にそれは浮かんでいた。地上からは遠く離れているはずなのに、なぜかやけにはっきりと見えてしまう。枯れ木を束ねて人の形にしたような、汚泥を捏ねて手足に見立てたような。あるいは干からびた赤ん坊を無理矢理大人ぐらいの大きさに引き延ばしたような。
なんだろう、あれ。なんか気持ち悪いなぁ。
「ママぁ、なにあれ?」
少女は背後にいるはずの母親に尋ね、振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。母親も、屋台の店員も。
「ママ?」
アスファルトには、アイスのカップが落ち、零れたアイスが染みをつくっている。
灰色へと色が抜けた世界の中で、少女の色も褪せていく。色褪せた灰の塊と化した少女の肉体は崩れ去る。
母親は、少女は、人々は何も残すことなく消え去り、そして街は動きを止めた。
2006年6月21日12時03分。
塵を踏む小人、降臨――。
止まった街で、異形の小人はただ在り続ける。
激しい振動が身体に伝わる。時が止まった世界の中で、武骨な様相の昇降機の駆動音のみが轟く。並の人間なら立ってもいられないような振動の中、浅葱空は雲一つない青空を見上げる。靴を模して編み上げた人器の下で、鉄の床板が、ジャリリと鳴った。
やがて昇降機の上昇は停止し、搭乗者を死地へと迎え入れるように扉が開く。大きく息を吐きだし、空は高層ビルの屋上へと踏み出した。
「うわぁー!思ってたよりも高いなぁ!!」
吹きすさぶ風は夏の風。青色のジャージがゆっくりとはためく。中に着たシャツには大きく『青春』という文字がプリントされている。屋上の縁にあった転落防止の柵は、飛び降りやすいように取り外されている。端に立って見下ろすと、世の埒外の存在が視界に入る。灰色に色あせた世界の中で、一段と昏い灰色の光を放つ空間があった。空間そのものが遠のいているような、近づいているような、不可解な明滅を繰り返している。あるいは永遠に停滞している。その中心には何か、人型のモノが浮かんでいた。人間の大人と同じくらいの大きさで、それはまるで悠久の時に晒され朽ち果てたミイラのようであった。一度も呼吸をしたことのない胎児の手足を引き延ばしたようなその異形の物体は、頭髪も眼窩も無く、しかしそれがただの死体ではないことは確信できた。吐き気を催すような『なにか』を、空は睨みつける。
大丈夫、何度もシミュレーションしたし、訓練も積んだ。十分な助走をつけて、屋上から飛び出すだけ。後は重力加速が十分な破壊力を生み出してくれる。攻撃の後の着地のことも問題ない
はず。だから、大丈夫。
『なにか』には、何本もの刃が突き刺さっている。長剣やナイフ、様々な武器。針山のようになったその痩躯を、赤銅色に染め上がった巻物が幾重にも取り囲んでいる。それらは「蒼の一族」が命を捧げた成果である。「夏の世界」の拡大を防いでいるこの楔一つをを打ち込むために、一族の人間一人、いやそれ以上の命が費やされている。『なにか』の遥か下、足元にはその証として、塵が山となって積みあがっている。その中には、空の父も、いる。
大丈夫、みんながここまでやってくれたことは無駄にならない。私がここで5年過ごしたことだって。こんなやつ、私のキックでぶっ飛ばして、この世界から出る。お母さんに、ただいまって言って、晩御飯のカレーを食べる。次の日学校に行って、ユカちゃんとちーちゃんに「おはよう」って言って、交換日記渡して、一緒に模擬店廻って。クラスのお化け屋敷の驚かし役もやらなくちゃ。終わったらみんなで打ち上げ。いつもの喫茶店でパフェ食べながら、夜までおしゃべり。その後だって、陸上部のインターハイも、部のクリスマス会もある。私の青春は忙しいんだ。だから、
「大丈夫」
緩やかに、しかし確実に自身の生命力が衰えていくのを感じる。これほど離れていても、「蒼の一族」の血を以てしても、体の芯が冷えていく。
「さて、行きますか」
挑むモノのおぞましさに対して、いささか軽い調子で少女は呟く。踵を返し、予め決めていた位置につく。白線を前にして、深呼吸をする。
深く、息を吸う。きっとうまくいく。
深く、息を吐く。なんとかなる。
こみ上げるものを喉奥に押し込めて、空はスタートの姿勢を取る。両手をつき、右足を前にかける。そして、走り出した。陸上部短距離走で鍛えた足で、「血」によって底上げされた身体能力で、ビルの屋上に描かれた助走用のレーンを奔り切り、踏み切る。
その身を宙へと投げだした。
「お、あ、あああぁあぁぁぁぁ!!!」
跳躍。超人的な加速によって飛び出した身体は、充分な破壊力を孕んで目標へと跳ぶ。風圧の中で、蹴りの姿勢をとる。スポーツシューズ型の人器に血を巡らし、足先一点に「血」を、生命力を込める。生きるものの時を止め塵へと帰す、生命への冒瀆の力。真直ぐに伸ばした脚が、蒼く輝く人器が力を宿し、それを打ち破るはずであった。
落ちる。落下してゆく自身を通り過ぎてゆく周りの景色が、やけに遅く感じる。
両の脚の膝上がやけに熱い。大腿部の切断面から流れ出した血の雫が、点々と、あるいは線を
描くように、落下していく軌跡を残している。その軌跡の先には、「夏の世界」に取り残された空の両脚があった。「小人」の異変に気付き、とっさに逃れようとしたその瞬間をそのままに切り取った一対の肉片は、悪趣味な現代アートのように「小人」と供にディスプレイされている。
先代までの「蒼の一族」、その誰と対峙したときも、「小人」は微動だにしなかった。敵対行動をとるそぶりもなかった。そう記録されている。しかし、だからといって、「敵は動くことはない」と決めつけるべきではなかった。その可能性を排除すべきではなかったのだ。
衝突の直前、「小人」の身体を突き破るはずだった足先が伝えたのは、とても奇妙な感覚だった。何かにぶつかったような感触でもなく、何にかに絡めとられたような感触でもなく。ただ一連の運動がそこで終了しただけのようなブツ切り感。靴先は、「小人」の数ミリ手前で完全に勢いを失っていた。
足先は止まっても、身体全体の運動エネルギーが消えたわけではない。生まれ持った身体のバネ、そして鍛え上げられた技能を使い、勢いを殺す。
失敗した!?なんで?いや、考えるな。今は、ここからどうするかだけに集中する!このまま追撃するか、離脱するか…!
一秒にも満たない空中での姿勢制御の中で、空は考える。今回の戦いが初陣であることを考えれば、この判断力は驚異的なものである。天賦の才であった。
しかし、この場では、思考することすら誤りであった。
悪寒が走った。脳から心臓から、内臓の何もかもを一気に鷲掴まれような危機感。空は直感に従い、「小人」から距離を取ろうと身を跳ね上げた。
ぶちり、と何かが切れる音がした。
空中で静止した脚。『夏の世界』に囚われたそれは、徐々に色を失い、崩れ、塵へと化していく。肌の色も肉の色もわからなくなった切断面。小さい頃に岩場で引っ掻けてできた、膝の傷跡。鮮やかな水色の刺繍が施された、靴下。
あの靴下、お気に入りだったのにな
空の意識は、闇の中に落ちてゆく。
衝突音と、何かがひしゃげる音が、遠く聞こえた。
小説版BLOOD RECALL一巻に続く。