小説

【廃滅の緋】始まりの物語

BLOOD RECALL 始まりの火

作者:ニラタマ

BLOOD RECALL始まりの火

 手を握る。自分より小さく華奢なその手は、少しひんやりとしている。自分の体温を分け与えるように、今一度しっかりと握り直す。窓の外は数刻前から降り始めた雨は段々と強さを増している。そのような天気だからか、バスの車内には夕燈と一華以外の人の姿はなかった。最後尾の座席から眺める車内は、まだ夕刻前だというのに、妙に薄暗い。しかし、この暗さは、逃避行の二人にとっては居心地が良い。初めての遠出で張っていた緊張の糸が緩んだのか、隣に座る一華からは小さな寝息が聞こえている。舗装された街並みを走るバスに揺られながら、夕燈は窓の外を流れていく雨粒を目で追う。
 君の手を初めて握ったあの日も、雨だった。
 夕燈は手の中の一華と、もう片方の腕に抱いた竹刀袋を、いま一度存在を確かめるように握り直した。一華の手は、まだ冷たい。

 数か月前、夕立ちの中、高校から寮への帰り道に、倒れる寸前の彼女の手をつかんだ。具合でも悪かったのか、真っ青な顔色だった。
 『大丈夫ですか』
 そう訊ね、支えた彼女の身体は、あまりに軽かった。このあたりの女学校の制服らしき、海老茶色の袴と緋色の着物。長い髪からはふわりと暖かな香りがした。反対にその手はあまりにも冷たく、握っているこちらが心配になるほどであった。
 『すみません、大丈夫です…』
 そう答え、振り返る彼女と、目が合った。
 優しく、しかしすべてをあきらめているかのような目。

なぜか彼女を放っておけなかった。そのまま近くのバス停で彼女を介抱し、そしてその後も付き合いが続いた。お互いが、お互いに好意を抱くのにも、時間はかからなかった。
 様々なことを話した。好きな本、好きな場所、そしてお互いの境遇について。彼女の家の御役目を聞き、世の裏側を知り驚愕した。彼女の境遇を知り、持って生まれた正義感から夕燈は憤った。彼女の全てをあきらめたような目を見て、そして夕燈は誓った。彼女をその境遇、その運命から救い出し、生涯守り抜くと。彼女は驚く。あまりにも無謀だ。その先にはお互いの破滅しかないと。しかし、夕燈の説得、そしてその決意の宿った瞳を見て、一華も決意する。愛する人と共に行くことを。
 二人の駆け落ちが、始まった。

手を唾着駆け落ちする二人


 バスは走る。微睡む二人を乗せて。
 青年は腕に軍刀を抱えて。少女の膝には、赤い本。
 二人の喪失感は波のように響き合い、二人の仲をより一層強くする。
 今は逢魔が時。日が暮れて、闇夜が訪れる、人の世と魔の世との狭間。人間の時間の終わりを待ちわびた何かが、ぞろりぞろりと這い出てくる。
 人の時間を外れたバスは、やがて、魔と出逢う。

 ぐしゃり、と大きな音がした。

 炎上する車体を背にし、夕燈は刀を振るう。雨に濡れた地面を駆け、不規則な軌道で飛び掛かってくる「何か」の突撃を、刀でいなす。しかしその衝撃を受けとめきることができず、ぬかるんだ土の上でたたらを踏む。その虫に似た、しかし大きさは初等部の児童ほどもあるその「何か」は、水気を帯びぬらぬらとした体表を蠢かせ、羽音を昂らせる。外殻は、無数の細かな蟲が這いまわるように不定に波打つ。生物の在り方とは思えないほど不規則に生えた足は、節をぎちぎちと鳴らす。この狂気的で冒涜的な化け物は、夕燈のこれまでの常識をたやすく侵してきた。虫の

ようではあるのに、それとは似て非なるこの「何か」は、その体躯に似合わず、矢の如く空中を奔り、ハチドリの如き急制動を交え襲い掛かってくる。それでも夕燈は、その動きに食らいついてゆく。相手が高空に飛べば、夕燈は街路樹を足場にして跳び、蹴り落とす。蚊と蝿を数十と重ね合わせたような不快な羽音を立て飛び回る「それ」に対し、夕燈は人間離れした身体能力で立ち回る。見たことのない異様な化け物ではあったが、これまでの戦闘の間にその体表には刃が通ることは分かっている。しかし、
「一華っ!」
不意に化け物が一華に襲い掛かる。人間の髑髏を醜く歪めたような頭部を開き、その口腔から無数の牙と名状しがたき様態の触手を覗かせ、少女の肉を喰い破らんと迫る。
「あっ」
その殺意に晒され、一華の足は死の恐怖にすくみ、動きが止まる。その致命的な隙に、夕燈は無理やり体をねじ込んだ。硬質な頭部を刀で弾く。進路を阻まれた「それ」は再び上空に舞い上がり、また加速の姿勢を見せる。
「大丈夫か、一華」
構えを解くことなく、夕燈は背後に庇った一華に声をかける。
「す、すみません、大丈夫です」
青ざめた顔で、きつく唇を結ぶ。彼女の動きは決して悪くはない。戦闘訓練は幼少の頃に中断したきりだと聞いていたが、夕燈の動きをよく読み、攻撃を捌いている。そこいらの成人男性よりもはるかに戦うことができていた。その身に宿した力で炎を操り、相手の注意を惹きつけ、牽制していた。「人器」というらしい小刀を使い、自身の掌を浅く傷つけ、そこから流れた血液を炎へと変える。時に切りつけ、時に刀身から炎を撃ち放ち、闘っている。大きな手傷を負わせることはできずとも、その立ち回りは見事であった。しかし、生死を掛けた戦いには、決定的に向

いていない。目の前に迫った死に対して、恐怖を抱きすぎるのだ。何かを守る、誰かを先に進める、そのためには少なからず何かを犠牲にしなければならない。必要ならば、自分の四肢さえも刃として使いつぶし、命すら薪としてくべ、相手を燃やし尽くす炎と成らなければならない。この戦闘は、そういう類のものだ。その意思が、覚悟が、一華には足りていない。
 不用意に飛び掛かってきたそれを、自ら一歩踏み出すことによって躱し、その表皮を浅く削る。削がれた外殻から中の肉がこぼれ、ひどい悪臭のするコールタールのごとき体液が飛び散る。負った傷に怒るように激しく身震いする「それ」に、背後に控えていた一華が、己の血をもって、焼きにかかる。
 しかし死の恐怖に怯え足を竦ませながらも、それでも何かを守るため立ち向かう一華に、夕燈は己の中には無いものを見る。そして夕燈にとって、それは輝かしく、尊いものに映った。

 雨が激しくなってきた。街灯の明かりも弱々しく、視界が悪い。夕燈と一華の体力も限界が近い。致命傷は無いものの、決して浅くはない傷も負っている。しかし、それは相手の「化け物」も同じであった。夕燈の斬撃から化け物が距離を取ろうとすれば、一華が炎を噴射し退路を塞ぐ。一華が体勢を崩せば、息を整えるまでの間夕燈は守りに徹する。刃が肉を割き、そこを炎が舐める。刀を振る度に外套が翻り、海老茶袴を炎が照らす。戦いの中で、互いの呼吸を理解し、互いの欠けた部分を埋めていく。
 そして動きの鈍った相手に剣戟を畳み掛ける。鼓膜を犯してくるかのような不快な音を立て続けている、蝉か何かのような翅を一枚、中ほどから切り落とす。怒りからなのか、ぎちぎちと鳴き声のようなものを発しながら高空に逃げようとするも、足りない翅のせいで体勢が安定しない。その隙を見逃さず、一華がその蟲の目前に火花を散らす。光が視覚

器官を焼く。一瞬注意を逸らした「それ」の頭部に、夕燈は刺突を放った。剣先はその外殻を割り、中に詰まった得体のしれない肉の感触を腕に伝える。苦悶に身を捩るそれは、何とか逃れようと翅をばたつかせる。突き刺さった刀に向かって、一華は指で己の血の雫を弾いた。それは刀に当たると赤い炎として燃え上がり、瞬く間に剣先に向け火の手を伸ばす。刀身を伝い、炎は怪異を内から焼く。そして、一層甲高い悲鳴を上げ、「それ」は胴体の下半分を残し、内側から爆ぜ散った。
「無事か、一華」
 構えを解き、一華の方を振り返る。血の気は失せ息を切らし、全身いたるところに傷を作って学生服は焼け焦げているがしかし、少女はしっかりと二本の足で立っていた。
「はい。なんとか…」
どちらからともなく、ほっと息を吐いた。生き残った、「神」と呼ばれる「化け物」を相手に。安堵と達成感に力が抜ける。
「…結局、巻き込んでしまいましたね」
一華は、懐にしまった赤い本にそっと手を添える。家から離れれば、街から出れば、「御役目」から逃れられると思っていた。しかし、運命はそれほどたやすく「防人の家」から逃しはしないようだ。
「今襲ってきた怪物は、「宙の落とし子」。「神話的狂気」と呼ばれる魔の物が使役する、奉仕種族の一つです」
 今の戦闘の相手は、神々の単なる先兵に過ぎないと一華は告げる。自分と共にいると、おそらく今回以上の力を持った神話的狂気が襲ってくるであろう。夕燈の人生は、常に死と隣り合わせのものになるであろう。一華は尋ねる。それでもいいのか、自分と共に来てくれるのか、と。
 その問いに、夕燈は迷うことなく頷いた。当然だ。誓ったではないか、と。
「僕は、あなたを守ります。あなたと、共に生きます」

 …なんだか、西洋小説の台詞みたいですね

少女はそう言って、少し困ったような顔で笑った。

 そんな穏やかなひと時。このひと時を、夕燈は生涯忘れることは無いだろう。
 幸せな時という意味でも、取り返しのつかない後悔という意味でも。

 油断していた。ただの奉仕種族だったとはいえ、これほどの死闘を繰り広げた後だ。これ以上の危機がやってくるなどとは思いもしていなかった。互いに体力も殆ど尽き、精神力も限界だった。だから反応が遅れた。そして、反応できたときには、すべてが手遅れだった。
 死が舞い降りた。それは轟音と衝撃を伴い、辺り一面を破壊する。瓦礫が吹き飛び舞い上がる。人気のない公園に一瞬にして巨大な陥没穴が開いた。もうもうと上がる土煙の中から、なにかが這い出てくる。それは蝙蝠のような翼を持ち、硬質な鱗に覆われた外皮を持っていた。首は長く、頭部は馬のように面長である。そしてそれは、三尺あまりもある巨躯であった。ぐいっと上体を反らし、雨の降りしきる天に向かってがぱりと顎を開く。

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 口腔から、咆哮が迸る。それは何とも形容のし難い、煉獄から聞こえてくる怨嗟の声のような、連れ込み宿の奥で上がる娼婦の嬌声のような、聖者の祈りの歌のような。聞く者の耳朶を叩き、脳をかき混ぜる。時折奔る雷光に、闇夜より深い黒き体が浮かび上がる。

 嵐の中での死闘が、始まった。

 首筋に向かって薙いだ一閃を、硬い鱗に覆われた翼で防がれる。怪物はその刃を弾き、相撲取りほどであっても易々と両断できそうな力で爪を振るう。しかし夕燈は攻撃を意にも介さず、渾身の力で頭部を蹴り抜く。人間離れしたその威力に、怪物も数歩たたらを踏むが、爪がかすったことで、胸部から新たに血が吹きだす。
 夕燈の視界に、倒れ伏す一華の姿が映る。打ちどころが悪かったのか、ぴくりとも動かない。
 死んでいるはずはない。夕燈はそう念じ、目の前の相手へと無理やり集中する。あれほど戦えていたのだ、きっと丈夫さも並みの女性ほどではあるまい。夕燈の勘がそう告げていた。とにかく、今はこの化け物を一刻も早く倒し、一華の手当てをしなければならなかった。
 刀の柄をぎりりと握りしめ、今度は顎を開き飛び掛かってくる相手を見迎え撃つ。艶めかしく滑り蠢く咥内を見せつけながら迫ってくる顎を、すんでのところで飛び上がり回避する。ばくんと閉じた鋭い牙の群れを尻目にその背に飛び乗り、そのまま化け物の背面を傷つけながら駆ける。最後に体重を乗せた一振りを、鞭のようにしなやかに撓る尾に叩き込んだ。その威力に、尾を守っていた鱗は割れ、中の肉が露出する。浅くない傷を負った化け物は咆哮し、怒りに任せて翼腕を振るう。ろくに体勢を立て直せなかった夕燈は、そのまま瓦礫と化した遊具に叩きつけられた。肉がひしゃげ、鉄筋の崩れる音に、化け物は快哉の叫びを上げた。

 身を捩ると、自身に覆いかぶさっている遊具の残骸が、がらりと音を立てる。受け身も取れず叩きつけられた身体が割れそうに傷んだ。呼吸をするたびに肺が痛む。左腕は、肘から先が歪に折れ曲がり、もはや感覚すらなかった。
 瓦礫の中に半ば埋もれたまま、朦朧とする頭で考える。あまりに強大な力に、自身を支えている気力が軋む。しかし。
 倒れている場合ではない。ここで奴を殺さねば、周辺の街、ひいては

この国の人々にまで被害が及ぶ。

 何より、一華が…。

 痛む肺に、無理やりに空気を入れる。
 出兵してゆく父の背中が脳裏に浮かぶ。国を護り、勇ましく散った人。

 出血の止まらない腹に、力を入れる。
 病床の母が脳裏に浮かぶ。優しく、「生きて」と願ってくれた人。

 震える脚を叱咤し、立ち上がる。
 一華の倒れた姿が脳裏に浮かぶ。護ると誓った、愛すべき人。

 そうだ、自分の命はここで使い捨てる。今度こそ、あの化け物を倒し、人々を護り、世を護り、一華を護る。我が身を盾とし、かの邪悪を打ち払うことが、俺の使命である。
 脚に力が戻る。自らの死に方が決まり、思考は清々しく晴れ渡っていた。その決意を胸に、右手一本で愛刀をもう一度握り直す。
 瓦礫の中から立ち上がった夕燈に、化け物は再び牙をむく。夕燈の刀によって、決して浅くない傷が残されている。気味悪く濡れ蠢く鱗を逆立て、聞く者の肌が粟立つような音を鳴らす。息を吸い、息を吐き、夕燈は刀を構えた。
 雷鳴が轟き、雷光が世界を割る。それを合図として夕燈は駆けだす。
 地を這うほどに姿勢を低くし、奔る。その姿は地面に落ちた影のようであった。化け物はそれを翼腕で薙ぎ払う。その暴力の化身のような腕はその場の大気を割き、鍵爪は夕燈の背の肉を削ぐが、それでも止まることはない。夕燈は身体を捻り、真上に刀を突きあげた。常人離れした動体視力により、その刃先は鱗と鱗の間を正確に貫く。勢いのままに刀

を振るうと、一瞬にして翼膜は根元から両断された。真中から裂けた翼は、もはや空を飛ぶ役割を担えるとは思えない。片翼をなくしたことで、化け物は体勢を崩し、どうと倒れる。
 その機を逃さず、勢いのまま尾に向かって切りかかる。渾身の力で切りつけた先は、先ほど深手を負わせた箇所。表皮が割れ、腐った生肉のような色味の内部が露出している。全身をバネのように使い、刀を跳ね上げる。刃が肉へと食い込み、ぶちぶちと繊維を断ち切ってゆく。裂帛の気合と共に振り抜いた刀は、化け物の尾を中ほどから切断する。分かたれた肉片は、くるくると宙を舞い、どちゃりと音を立てて落下した。
 化け物の怒りの咆哮。振るわれる剛腕。禍々しい鍵爪が何度も夕燈に叩きつけられる。一撃ごとに、内臓をつぶされるような衝撃が身体を貫く。しかし夕燈は意にも介さず、その大振りな攻撃の合間を縫って、刃を突き立てる。脇腹の肉を抉られる、太ももに鍵爪が突き立てられる、そのたびになお、刃の鋭さが増す。命そのものを刃としているかのような剣戟であった。
 しかし、幾度目かの攻防の後、ついにその拮抗が崩れる。ここまで幾度となく夕燈の危機を救い、神話的狂気に血を流させてきた愛刀が限界を迎えのだ。刃の根元と柄を残し、折れた。突然の拮抗の終わりにたたらを踏みよろける夕燈を、化け物はすかさず首根っこを押さえ、地面に叩きつける。
 獲物を組み伏せ、勝ち誇るかのように牙を鳴らす。愛刀は折れ、左腕はもう動かない。満身創痍の身体で、それでも夕燈の眼からは闘う意思が消えることは無かった。喜び勇んで化け物が、夕燈の首を喰いちぎろうと顎を大きく開く。刹那、その大穴めがけて折れた刀の残骸を、己の右腕ごと突き込んだ。化け物の口腔を、柄と刃の残りで文字通りかき混ぜながら突き入れる。鋭い破片で咽頭を切り刻まれ、腐臭をまき散らす暗黒色の体液が滂沱の如く吹き出す。然しもの神話的狂気も、たまらずもがき苦しむ。突き入れられた人間の腕を喰いちぎりにかかる。夕燈は、

激しく暴れる化け物から振り放されまいと、残された脚を使って必死に組み付く。夕燈の腕に何本もの牙が突き立つ。それでもなお、肉を切り刻み続ける。牙は筋肉を喰い破り、関節を割る。痛みに視界が明滅するが、それでも組み付き放さない。

 少なくともこいつも生物であったなら、このまま血を流し続ければ死ぬはずだ。
 このまま奴を道連れにする。自分の死地は、今ここと決めたのだ。

 渾身の力をもって、刃を奥へ奥へと突き入れる。喰いつかれた腕は、肉が削げ、上腕骨がむき出しになる。撒き散らされる黒い血と赤い血、腐臭と鉄の匂いは降りしきる雨に洗い流される。化け物の籠った咆哮と、夕燈の魂を振り絞る絶叫と、嵐に轟く雷鳴が重なる。稲妻が、一塊になった巨大な影を映す。
 しかし、長きにわたる攻防の末、化け物の体力にもようやく陰りが見える。その体躯を支えきれなくなったか、四肢を折り、崩れ落ちる。その衝撃で、喰いつかれていた腕が吐き出され、夕燈も地に転がる。
 両の腕はもはや動かない。それでもと、脚の力だけで立ち上がり、止めを刺さんと前へ進む。腕が動かないのなら、この脚で蹴り抜き、この歯で喰いついてでも、殺す。

 ただ正義のために。

 そのとき、夕燈は自分の背後に、なにかの熱を感じた。それはとてつもなく熱く、それでいて弱々しい。化け物もそれを察知し、口腔から体液をぼたぼたと溢しながらもがく。それが、この神話的狂気の最後の抵抗となった。

 お父様、お母さま。一華は、今ここで、御役目を果たします

 倒れ込んだまま、しかし決意の籠った眼で、一華は化け物を見据える。血の気が失せた唇で何かを呟いたが、夕燈には聞き取ることができなかった。手のひらに浮かべた、蝋燭に灯ったような儚げな焔。その大きさには明らかに見合わない熱量を持った焔を、そっと手のひらで握り込んだ。
 神話的狂気は燃え上がる。肉も鱗も、爪や牙も関係なく、一切を平等に燃やす。雨に濡れても勢いの変わらぬその炎は、肉や空気ではない、なにか別のものを燃料としているかのようであった。化け物が外側からも、内側からも燃える。咽頭を潰されたために、断末魔さえも上げることを許されず、身を捩らせ、ただ静かに焼かれていく。

 夕燈は這いずり、一華の元へと向かう。おびただしい出血であった。もはや動くことが不思議なその身体は、そう長くは持たないだろうと分かっていた。せめて、愛する人の近くで眠りたかった。
 一目見て、彼女の命も尽きかけていることがわかった。おそらく先ほどの技のせいなのだろう。呼吸も浅く、肌は死人のように青白かった。夕燈は右手を伸ばそうとするが、ずたずたに噛み砕かれた腕はうまく動かず、一華には届かない。

 「すまない、貴方を守れなかった」
 「これでいいのです。夕燈さんのおかげで、私は御役目を果たすことができました」
 「それでも、おれは…」
 あぁ、命の火が消える。愛するものを護れずに消える。
 「君だけでも、生かしたかったのだ」
 声が震えるのは、死にゆくか、悔しさからか。横たわった一華と倒れた夕燈の視線が交わる。死の冷たさが夕燈の意識を引き込み、徐々に視界がかすみ始める。しかし、
 「すみません、夕燈さん。私は…」
 寂し気な表情でほほ笑んだ。
 「わがままで、自分勝手な、女です」

 自分の命と引き換えに、あの神話的狂気「しゃんたく鳥」を殺した。出来損ないの私でも、世の、御家の役に立てたと安堵した。自分の「おりじん」も次代に残せる。これ以上ない最期だ。一華は満足していた。生命維持に必要な分の血液さえも使い切った身体は、芯から冷え切っていた。その冷たさに意識が沈みそうになる。こちらに這って近づいてくる夕燈と目が合う。このまま身を委ねていれば、私はこの方と共に逝き、添い遂げることができる。そう思うと、胸の奥が甘く締め付けられる。
 しかし、一華は別の「道」を選んだ。
 「一華…?」
 一華の言葉に戸惑う夕燈。その右腕、その指先に一華の指が触れた。

 はっとする。朦朧としていた意識が、次第にはっきりしていく。身体のあちこちから小さな炎が上がり、そのたびに傷が癒えていく。あたたかな炎に包まれ、潰れた内臓が、裂けた肉が綺麗に治ってゆく。喰い荒らされた右腕が、折れて捻じ曲がっていた左腕が、元のように戻っていた。
 そして、その奇跡の代償のように、一華は炎に包まれる。否、一華の身体自体が炎となって、解けてゆく。それは指先に始まり、段々と。
 「なぜ……、なぜ、どうして」
 夕燈は叫ぶ。死の淵から戻った身体を起こし、崩れゆく一華を抱き寄せる。

 なぜだろう。一華は炎の揺らめく視界の中で考える。その向こうに、夕燈の瞳を見つけるその瞳は、あの日、なにものにも成れない自分を、

絶望の海の中から救い上げてくれた眼と同じだった。優しい、死にたがっている眼。
 あぁ、そうだ。私はこの人を救いたかったのだ。死んでほしくなかったのだ。

 だから

 「生きて…、わたしの遺志があなたを護るから」

残り火

 これは、貴方にとって、呪いとなるだろう。だとしても、わたしは貴方に生きていてほしい。

 これは、わたしのわがまま。

 炎が腕の中から解けて消えた。あとには、一握りの白い灰と、彼女の髪の香り。そして赤い本。
 一人残された青年は声なき慟哭を上げる。

 何時からか、雨は止んでいた。